このサイトについて 「筆者」への連絡
新たな進化を遂げつつある二つの古都を結ぶ鉄道
その8(長池−玉水) 取材日:2012年8月6日
2014年6月8日初版公開
 長池駅からの乗客はなく、扉が閉まると再び南に向かって走っていく。この辺りまで来ると、車窓からは住宅よりも水田や畑などの農地が広がり始め、それらは青々とした絨毯のようだった。その緑の絨毯の中にはぽつりぽつりと住宅が建っているのが見えるが、それはこれまで見えていた近代的なものではなく、古くからある農家の家々のようだ。
 左側には府道70号線が線路に近づいては離れていき、再び近づいてくるように並走している。奈良線の線路はそれほどカーブがあるわけではなかったから、どうやら、府道の方がカーブが連続してるようだ。その府道70号線を踏切でクロスすると、いよいよ農業用地の中を突き進んでいくようになる。
 やがて列車を覆うような雑木林が見えてくると、列車はそのまま雑木林の中を進んでいく。ここの辺りは掘り割り構造で、奈良線の線路の方がほかの土地よりも低い。そして、この雑木林に囲まれた掘り割りの中を進んでいくと、短いながらも一本の跨線橋のようなものをぐるり抜ける。実はこの「跨線橋」のようなものは、木津川の支流である青谷川で、鉄道を川が跨ぐという珍しい構造をしている。
 京都や奈良を旅する時に、「川の方がほかの平地より高い」という話をよく聞くが、この青谷川がまさにそれで、列車に乗っている時には気づかなかった。細い道路が線路を跨いでいるのだろうと思っていたが、後々調べてみるとそんな珍しい後継だったとは。
 そんな青谷川を“アンダーパス”すると、列車は速度を落として山城青谷駅へ到着する。
 山城青谷駅は奈良線の駅の中では比較的歴史が古く、開業は1926年の青谷梅林仮停車場として開業したころに遡ることができる。京都府内でも有名な青谷梅林への観梅客の便を図っての仮停車場の設置であったが、1933年に正式に駅へとの昇格している。もちろん、現在でも梅のシーズンになれば観梅に訪れる利用者もあるだろう。しかし、1日平均乗客数を見ると2003年の1047人をピークに年々減少し続け、2010年には975人となりその後は横ばい状態だ。城陽市の南端に位置する駅ではあるが、駅の周辺に構成された住宅地以外は、ほぼすべてが農業用地という立地から考えると頷ける。
 そんな駅でありながら、駅構造は相対式2面2線と上下列車の交換ができる構造で、駅舎も青谷コミュニティセンターと合築なので立派なものだ。駅そのものの管理は宇治駅が行い、駅業務はJR西日本の子会社に委託している業務委託駅である。
 山城青谷駅での乗降はなく、一度開いた扉が何事もなく空気式ドアエンジの独特の音をさせながら再び閉まる。
 列車は比較的線形のよいところを南へと向かっていく。山城青谷駅を発車してすぐに左手には再び分譲住宅らしい戸建ての家々が見えてくるが、右側は緑色の美しい農業用地が広がっている。そして国道307号線をアンダーパスすると山城多賀駅へと滑り込んだ。
▲山城多賀駅の駅名標。隣接する駅案内の帯色は、JR西日本の標準の青色ではなく茶系のものが使われていた。アーバンネットワークの案内としての路線カラーは茶だが、それよりは黄色みがかっている。背景にある駅周辺はあまり人通りが多くないように思える。
 駅の構造は2面2線と、奈良線のほかの駅と同格の設備を持っているが、現在のようになったのは2000年と新しい。それまでは単式1面1線という、単線区間でありがちな小さな中間駅でしかなかった。しかし1994年から始められた奈良線の輸送改善事業によって、駅舎の改築と列車交換設備の設置がされて現在のような姿になった。そのため、当駅で上下列車の交換はもちろんだが、快速列車が減速しないで通過できる「1線スルー構造」となっている。
 その反面、駅の乗客数は2011年で393人と少なく、ある意味では「過剰設備」とさえ思えなくもないが、奈良線の輸送力改善という全体で見れば必要なのかもしれない。このような乗車人数のためか駅は無人駅だ。列車の運転設備(分岐器など)備えていながら無人駅というのも少々違和感があるが、それは筆者が運転設備のある駅=運転取扱駅=有人駅と思い込んでしまっているせいもあるだろう。通常ならば、こうした列車の交換設備などを有する駅には必ず「信号所」というものがあるのだが、山城多賀駅にはそれがない。1982年にCTC(列車集中制御装置)が導入され、こうした設備の信号操作はすべて大阪総合運転司令所で行われているという。なるほど、こうした小さな駅一つひとつに信号所を設け、保安要員を配置していては合理性には欠けるだろう。運行コストもその分高くなる。CTCであれば、小駅でもこうした運転設備も設置ができるというものだ。とはいえ、やはり無人の駅でこうした設備を遠隔で操作というのも、どうもしっくりこない。万一の場合にはどうするのだろうかと、ついつい考えてしまうのも、筆者が“古いタイプ”の鉄道員だったからかもしれない。
 ここでも乗降がなく、列車は再び南に向かって走り出していく。山城多賀駅を中心にした集落がなくなると、右手はのどかな田園地帯とその向こうには木津川が流れている。その反対側には京都盆地を成す南東の山々が迫ってくると玉水駅に着く。
 玉水駅に到着した列車は、分岐器を渡って2番線のホームへと滑り込む。ここで上り快速列車との待ち合わせをするためだ。玉水駅も1線スルー構造で、2番線を使用するのは列車交換をする下り列車のみである。
 この玉水駅には旧国鉄の電化9,000km達成の記念碑がある。1904年に現在の中央本線の前進である甲武鉄道が飯田町−中野間を電化したのが最初とされている。その後、幹線鉄道を中心に電化を進めていくことになるが、奈良線のように都市近郊にありながら並走する私鉄があるが故に積極的な経営をしない方針から、非電化のまま残されていた路線はいくつもあった。当の奈良線でさえ、全線電化になったのは既に述べたように1984年と遅く、国鉄分割民営化の3年前と、“駆け込み乗車的”なものだった。そんな遅い電化工事が、この玉水駅で延べ9,000kmになったというものである。
 玉水駅は比較的乗降の多い駅で、駅を中心に戸建て住宅が建ち並ぶ集落を形成している。もちらん、かつては農業用地であったのだろう、駅から離れたところにはその名残として田畑が青々と広がっている。しかし、快速列車の停車駅という駅そのものの役割から、近年はベッドタウン化が進んでいることが窺え、京都方に位置する山城多賀駅とは対照的に、2011年の1日平均乗車人員は1,000人強と多く、井出町の中心駅といった存在だ。
 上り快速列車との交換を終えて、列車が走り出すと再び用水路を“アンダーパス”していく。人口であれ自然であれ、川の下を鉄道が「潜り抜ける」という光景はそうそうあるものではない。暫くはほぼ直線で、起伏のないところを通過していくので、103系電車は再びモーター音を唸らせながら加速し、単線区間で許されている最高速度100km/hで疾走するものだから、あの台車が再び限界を超えたのか車内を上下左右に激しく揺さぶる。そんなわけで、筆者のメモ帳もまたもやミミズののたくった文字が並ぶことになる。
 
広告
P R
(C)2004-2014 Norichika Watanabe Allright Reserved.