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国鉄E10形蒸気機関車
JNR Type "E10" Steem Locomotive.
▲E10 2 2009年11月21日 青梅鉄道公園
 世の中には、その出自故に不遇な扱いを受けることがある。もちろん、それが一生続くとなればたまったものではないし、人間ならなおさらである。鉄道車両もまたしかりで、今回紹介するE10形蒸気機関車もその一つだろう。とはいえ、筆者にとってこの大型タンク式蒸機はなんともいえぬ魅力を感じる。
 このE10 2に最初に出会ったのは、今から30年以上前。筆者が小学校4年生の時のことで、この頃は「林間学校」という宿泊を伴う校外学習があった。筆者の通う小学校では東京の奥多摩にある御岳山で林間学校を行っていたが、その帰り道に青梅鉄道公園に立ち寄ったのがきっかけで、この機関車と出会った。もちろん、その頃の筆者には蒸機はどれも黒く、どれもこれも同じにしか見えなかったが、なぜかこのE10 2だけは記憶にあったのだ。やはり、動輪を5個持ちテンダーのない、やたらと大きいタンク式蒸機ということで覚えていたのだろう。
 時は流れ、2年前に青梅鉄道公園を訪れた際には、公園自体がかつての様相と大違いだった。公園も、展示されている保存機もきれいに整備されていて、まさに屋外博物館といってもいいくらいになっていた。確か、小学生の時には単に「雨ざらし」の敷地に蒸気機関車が置かれていただけだったような気がするのだが。

 E10形蒸気機関車は、奥羽本線の難所である板谷峠の急勾配に対応する補助機関車(補機)用として開発された、タンク式蒸気機関車である。それまで使用されていた4110形は大正時代に製造された勾配用機関車で、戦後の輸送需要増加と機関車自体の老朽化が進んでいたことから、これを代替する必要があった。このため開発されたE10形は、所期の目的通りに庭坂機関区に配置し、奥羽本線で使用された。
 全部で5両という少数が製造されたに留まったが、これは4110形の全25両を置き換えるものではなかったためで、E10形が就役した頃には既に奥羽本線は電化工事が始まっており、それまでの繋ぎという意味合いが強かったためである。
 軸配置は先輪のある1E2で、4110形の0E0とは異なっていた。これは、4110形に比べ機関車自体が大型化されたため、先輪と従輪を付加することで軸重を軽減させている。動輪は形式が示す通り5でであるが、曲線通過を容易にするために第1動輪は横動を許容し、第2動輪はフランジを通常より薄型のものに、そして第3・4動輪はフランジレスにすることで対応している。
 また、通常の蒸機ではボイラー側が先頭で、運転台側(炭庫側)が後部となるのだが、このE10形ではまったく逆の運転台側が先頭になっていた(所謂逆向き)。これは、勾配登坂時やトンネル内で煤煙による運転士の窒息事故を防ぐためであった。このため、近代蒸気機関車としては珍しく、製造当初から除煙板(デフレクター)を装備していなかった。
 就役から間もない翌1949年には、奥羽本線の板谷峠区間の直流電化が完成し、E10形はその役割をEF64形に早々に明け渡すことになった。もともとが勾配用として開発され、しかも動輪5個のタンク式蒸機であり、製造両数も僅か5両ということが、その後の運命を左右することになった。板谷峠の任を解かれたE10形は、遠く九州の肥薩線で使用されることになったが、ここでも大型過ぎて不適であるとして、僅か半年で追われた(結局D51形に置き換え)。
 次に北陸本線の倶利伽羅峠越えの補機に転用、こちらでは1955年の新倶利伽羅トンネル開通まで使用されている。その後は、米原機関区配置となって同じ北陸本線の米原−田村間線用機関車として使用された。この区間は、直流電化と交流電化の接続区間として非電化で残されていて、勾配用として製造されE10形にとっては場違いな活躍の場であったが、強力で転向不要なタンク式蒸機ということで使用された。
 だが、ここでの活躍もD50形やD51形に余裕が出てきたことと、もともと少数形式であり、しかも戦時規格資材による不具合の発生などにより、1962年に全車廃車となり形式消滅した。僅か14年でその生涯を閉じたE10形は、先代の4110形とは対照的である。
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