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取材日:2011年7月18日
掲載日:2011年7月23日
▲夏の照りつける暑い日差しの中を、横川駅に進入する115系普通列車。現在は終着駅となった横川駅も、かつては碓氷峠へ挑むべく強力な機関車を連結するために、全列車が停車した要衝でもあった。4両編成の列車には不釣り合いな長いホームと広大な構内がそれを物語っている。
 「兵どもの夢の跡」とはよく言ったもので、この言葉に当てはまる駅といえば筆者はまず、この信越本線横川駅を挙げるだろう。なぜなら、1997年9月30日までは、国内でも有数の難所である碓氷峠を登るべく、「峠のシェルパ」と呼ばれた強力な補助機関車の基地でもあったからだ。
▲横川駅の駅舎。こぢんまりとしたこの駅舎から、往時のこの駅の機能と重要性を想像することは難しい。駅舎脇には「峠の釜飯」の売店がある。
 碓氷峠は66.7‰という急勾配を擁していて、ここから軽井沢までを登っていくには自力では不可能。列車はすべて横川駅に停車し、補助機関車を連結してゆっくりと登っていく光景は当たり前となっていた。それだけに、この横川駅の敷地は広大で、長編成の列車が停まれる長い有効長を備えたホーム、そして多くの側線があった。
 そして、横川駅の長野方には、峠を登っていく列車にとって頼もしい味方である補助機関車の基地、横川運転所(国鉄時代は横川機関区)があり、蒸気機関車の時代には3900形や3920形といったラックレール式鉄道用の特殊な機関車が待ち構えていた。とはいえ、蒸気機関車の時代にはかなりの苦労があったようで、吐き出す煤煙はかなりのものだったらしく、中には窒息する機関士もいたとか。たまたま、蒸機時代を知る国鉄OB(筆者から見れば大先輩)の方の話を聞くと、言葉に言い表せないほどの苦難だったとか。それでも、列車を運行させようとする鉄道員魂からか先人たちは知恵を絞り、数あるトンネルには幕を取り付け、列車が通過するとすぐに幕を閉じる役をする職員も配置されていたらしい。
 さすがに機関士には常に窒息する危険があり、それは乗客にも同じことが言えたとあっては、当時の鉄道省も電化することを急務と考えたらしく、やがて同じくラックレール式鉄道用の電気機関車の基地となり、戦後は輸送効率の面からラックレール式鉄道を止めて他の在来線と同じ粘着運転へと変わっていく。それでも、この横川駅の役割は変わらず重要だった。
 北陸新幹線(長野新幹線)の開業と引き換えに、国内の鉄道最難所の碓氷峠越えは廃止になり、信越本線はこの横川駅で止められてしまう。横川−軽井沢間は廃線、軽井沢−篠ノ井間は第3セクターへ移行するという「分断状態」になってしまった。
▲横川駅2番線ホームの反対側に残る「白線」。かつてこちら側にも線路があったことを窺える。現在は駐車場となっている。
 横川駅のホームは対向式1面、島式1面で中線を備えた線路配置で、島式のホームは現在は片面しか使われていない。長野方に伸びていたであろう線路は、車止めが設置されていて往時の面影はない。駅舎はこぢんまりとしたもので、ICカード対応の自動改札機が2基備わっている。みどりの窓口はなく、代わりに指定席特急券の購入が可能な自動券売機と、今日のJR東日本の標準的な出札機能はある。そして、忘れてならない「峠の釜飯」は今も健在で、駅舎の隣に荻野屋の売店が、ホームの内外で購入できる構造で店を構えていた。
 列車もいまでは1時間に1本という少なさで、かつてとは大きく異なる。乗ってきた列車も、今では貴重な湘南色の115系電車3両ないし4両編成と短く、10分ほどの停車して折り返していく。10両以上が停まれる有効長をもつホームには寂しい限りだ。それでも、この横川駅の構内を眺めていると、かつて多くの列車がここに停まり、そして多くの人々が難所・碓氷峠を目の前にした一時(ひととき)を過ごしたことは想像に難くない。いまでも保っている長いホーム、そして列車本数の割に非常に手の行き届いた本線級の軌道がそれを物語っている。
かつて、ここから先にも線路が続いていたが、現在は車止めが置かれその面影は薄い。その向こうには、かつての横川運転所とその背景に碓氷峠の姿が見える。(左)横川駅の構内が広大なものだったことを伝える線路の遺構。電車線(架線)のビームが空き地にまで伸びている。右奥には保線車両の留置線がある。(右)
駅概要
駅名 横川(よこかわ)駅
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 信越本線
キロ定 高崎起点 29.7km
駅構造 地上駅
ホーム構造 2面3線(対向式1面、島式1面)
駅種別 旅客駅
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