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取材日:2012年6月24日
掲載日:2012年10月8日 加除訂正:2012年11月11
▲両国駅北口の駅舎は、かつてのターミナルであったことを伝えるように比較的大きな建物だ。現在では緩行線のみが停車する中間駅であるが、国鉄時代は両国駅発着の特急列車や急行列車が設定されていた。夏季のシーズンともなれば、房総方面へ向かう行楽客で賑わっていたのだろう、駅前にもロータリーがあったのか比較的広い敷地がある。現在、この駅が賑わいを見せるとすれば、隣に建つ両国国技館で大相撲の開催日だろう。
 筆者が小学生の頃だったか、保育社という出版社から刊行された「国鉄の車両」シリーズを書店で見かけ、当時少ない小遣いをはたいて手に入れた「首都圏各線」という本に、総武線を紹介する稿があり、そこに両国駅のことが書かれていた。かつては房総各線への東京側起点となっていた駅であったが、横須賀・総武快速線の東京トンネルの開通によって、起点としての機能が奪われ中間の一駅になっていたという話だった。今では絶版となってしまったシリーズで、書斎を整理していたらこの本が出てきて、思わず懐かしくなり両国駅へと出かけてみることにした。
 どうせ行くならばと、直接両国駅へ行くのではなく、東武伊勢崎線の堀切駅と同じ東武鉄道の亀戸線も乗ってみようと、いわば「欲張って」みた。一度の取材で複数の駅や路線に行くということはこれまでなかったので、果たしてどれほどの「成果」が得られるかという試行でもあった。
 6月ともなれば梅雨時である。車両の記録を目的に出かけるのならば、どちらかといえば曇天の方が写真写りがいいと思う。しかし、そうでない駅や路線の取材ならば、やはり晴天の方がいい写真も撮れるし、なにより出かけるのにも気持ちがいい。この年の6月は梅雨時になったとはいえ、雨の日が少なく晴れて暑い日が多かった。そのおかげで、取材には困らなかったが、この記事を書いている9月になって、水不足という事態に陥ってしまったから、やはり梅雨時には雨が降らないと困るものだ。

▲上:電車線ホームに降り立つと、そこからかつての列車線ホームを望むことができる。列車線ホームはいまも存在しているが、そこに人の姿はない。現在は列車線ホームに通じる通路は閉鎖され、立ち入ることができない。新宿方にある上屋は古くからのものであるが、千葉方の上屋は最近増設された現代的なもの。 下:駅名標はレトロ感覚のものに替えられ、上屋を支える支柱には琺瑯製の駅名標、そして壁には両国の昔を伝える絵があり、この駅の伝統を伝えている。
 夏日の汗ばむ陽気の両国駅に降り立つと、まず最初に目に入ってくるのが両国国技館の青緑色をした大きな屋根である。この両国国技館は相撲の本拠地であることは誰もが知るところだが、建物自体は2代目で、それまで相撲の本拠地は蔵前国技館であったが、1985年に現在地に移転・新築して使用されている。この国技館が建つ土地は、以前は国鉄両国貨物駅の跡地で、貨物駅の廃止後は国鉄バスの駐泊場であったから、駅の真ん前にこれだけ大きな施設を建てるには好条件であったであろう。1985年といえば分割民営化を目前に控えた時期だけに、膨大を通り越してもはや返済不可能なまでに(実際、分割民営化後も返済不可能となり、現在も毎年1兆円規模で返済が続いている)膨らんだ赤字を抱える国鉄にとって、都心の駅前にある土地を売却できるのはある意味好機であっただろう。
 両国駅の開業は1904年に遡ることができる。開業当時は両国橋駅と称し、総武鉄道という私鉄によって造られた。総武鉄道は現在の総武本線であるが、当時は官営鉄道が東海道本線をはじめとしてごく僅かであったが、一方で富国強兵策の一環なのか、鉄道敷設法によって全国に鉄道網を張り巡らせることが法律によって明記されていた。しかし、財政難の折りにそのような大規模事業を国の事業で行うことは難しく、私鉄の手によって鉄道網が広げられていった経緯がある。この総武鉄道もそうした私鉄の一つで、1894年に市川駅−佐倉駅間の開業を皮切りに、同年12月には江戸川を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)へと延伸させ、現在では考えられないような早さで長い距離を開業している。その後、順次西への延伸を進め1897年に1899年には銚子駅まで開業させている。一方、都心側への延伸はこれより遅れて1899年に本所駅−秋葉原駅間の免許を得て、1904年に両国橋駅を開業してこれを都心側ターミナルとした。この時に、東武鉄道亀戸線も既に吾妻橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅、旧業平橋駅)をターミナル駅としていたが、こちらを支線級に格下げ亀戸線を本線として両国橋駅へと乗り入れ、両国橋駅は千葉方面だけではなく北関東方面へのターミナル駅として、また隅田川の船運を介して都心部への貨物輸送も担う拠点として機能した。
 ところが、1906年に鉄道国有法が施行されたことによって、私鉄の手によって広げられていった鉄道網は、地域輸送を担う鉄道を除いた幹線鉄道はすべて買収・国有化されることになる。総武鉄道も買収の対象になった一つで、翌1907年に国有化されてしまった。国の財政が厳しいから民間の財力に頼って鉄道網を広げさせ、一段落したところで法律によって強制的に買収・国有化するという何とも乱暴な話であるが、この法律そのものが成立するまでにはかなりの年数がかかっていることから、当時としても私鉄経営者や関係する政治家にとっても、この国有化には相当抵抗したことが窺える。日本の鉄道の父と呼ばれる井上勝は国有化論に熱心だったようで、様々な論理で国有化を主張したという。現在の世の中なら、こんな乱暴な法律を提案しようものなら、かなりの反発を受けることは間違いないだろう。なにせ、当時ですらその主張はなかなか受け入れられなかったというのだから。

▲電車線ホームの上屋も、見事なまでの曲線美を備えた構造物だ。古レールとT字鋼を組み合わせ、さらに折り曲げて造られている。梁と支柱の接続部は溶接やボルト締めではなく、リベット打ちというのも現在の建築物にない美しさがある。この「古さ」が両国駅がかつてのターミナルであったことを、、静かに伝えている。

 こうして、両国橋駅を含めて総武鉄道は国有化、総武本線となっていく。
 国有化後されて3年後に、東武鉄道は浅草駅の営業を再開させたことで、亀戸線は支線格に格下げとなり、両国橋駅への乗り入れも廃止された。ここから、ターミナル駅から現在のような中間駅の一つになっていく歴史が始まっていくことになるが、最も大きな変化が起きるのはかなり先の話になる。1923年の関東大震災で被災し、両国橋駅の駅舎も焼失するという被害を受けることになるが、列車の運転そのものは約1か月の後に再開するも、駅舎の復興は1929年になるまで待たねばならなかった。
 駅名が現在の両国駅に改称されたのが1931年のこと。翌年には御茶ノ水駅までの電車線が開業して、総武本線の起点駅から中間駅へと変わり、電車運転がはじめられることになる。この電車運転は、当初は新宿方面から両国駅までであったので、実質は千葉・銚子方面への乗換ターミナルとして機能していた。それも、1933年に船橋駅までの電化工事が完成したこよにより、船橋駅まで電車の直通運転が始められ、いよいよもって中間駅となっていく。
 一方、優等列車は第二次世界大戦の終戦を待たねばならなかった。1950年に内房線直通の臨時快速「漣(さざなみ)」が両国駅−館山駅間で運転開始、1952年には「さざなみ」と改称の上毎日運転となっていく。外房線直通の快速列車も同時期に「黒潮」の運転が始められたが、こちらは新宿駅始発となっていた。肝心な総武本線のみを運転する優等列車は、1958年に準急「犬吠」が両国駅を起点として運転を開始。続くように、房総各方面への快速列車が準急列車に格上げされ、両国駅は房総各方面への優等列車の拠点となっていった。
 その後、大きな動きはしばらくなく、両国駅は東京側のターミナル駅としての機能を維持していく。その転機が訪れたのは1970年のこと。貨物営業の廃止により、駅北側にあった貨物ヤードはその機能を止めることになる。そして、1972年に国鉄が進めていた通勤五方面作戦の一環として、東京駅−錦糸町駅間開業と津田沼駅までの複々線化完成によって、総武快速線の運転が開始されるが、両国駅は優等列車の始発ターミナル駅であったにもかかわらず快速線は停車せず、隣の錦糸町駅が快速線の停車駅となってしまった。それどころか、この東京駅までの延伸に伴って、それまで新宿駅もしくは両国駅を始発としていた急行列車の一部を特急列車への格上げの上、東京駅始発とされて両国駅は快速と特急は通過するが、急行については始発駅という何ともちぐはぐな状態なっていったが、これは急行列車に使用される165系電車がATC非装備のため、東京駅への総武トンネルへ入線できなかったためである。
 やがて両国駅のターミナル機能にとどめを刺す形で、千葉方面への急行列車が1982年のダイヤ改正で全廃。長らく房総半島を走り続けてきた湘南色の153/165系電車が姿を消し、代わりに特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」がそれぞれ一往復だけ残され、もはや昔日の栄光も風前の灯火となった。
 さらに1987年に国鉄が分割民営化され、JR東日本に継承されたが、翌1988年についに両国始発の特急列車は、新たに開業した京葉線への振替とともに乗り入れを終了。開業から千葉方面へのターミナル駅として歴史を紡いできた両国駅は、緩行線のみが停車する駅へとなってしまった。
 そんなかつての房総への拠点であった列車線ホームは、駅の北側に今も静かに残されている。電車線ホームからは少し低い位置にあるのがそれで、現在では発着する皆無に等しい。しかし、全盛期はここから何本もの列車が発着し、列車線ホームは乗降客で賑わっていたようであるが、急行列車がすべて特急列車へ格上げされてからは、その面影も昔日のものとなってしまった。それでも、特急列車が三往復だけ残された国鉄末期には、少ないながらも列車線ホームからは定期列車が発着していたが、乗降客がほとんどいなかったのか列車改札のある中央口は閉鎖されてしまい、列車の発車30分前から発車までの僅かな時間だけ、この列車線ホームに通じる電車ホームとの連絡通路を開ける措置がとられた。まさに、かつてのターミナル駅も昔日のものとなる凋落ぶりだ。
 特急列車の発着が廃止されてからは、旅客営業用の列車の発着はなくなったが、代わりに房総方面への荷物電車の発着に使用されていた時期があった。荷物電車、略して「荷電」は国鉄時代には中長距離の列車に併結されたり、或いは荷電だけの運転されたりして、鉄道小荷物を輸送していた事業用車だ。国鉄の小荷物輸送廃止は1986年に廃止されたはずが、民営化後もこの両国駅列車線ホームから細々と荷物輸送が行われていたのだ。これは、道路事情がよくない房総半島各地への新聞輸送をするためで、大半が用途を失って廃車の運命を辿っていった荷物電車だが、この房総への新聞輸送のためにクモユニ143形電車が残され営業運転に使用されていたという。その後、荷物輸送は113系電車に置き換えられたものの2010年まで存続していて、これが列車線ホームから発着する唯一の定期列車だった。
 現在では、この列車線ホームへの通路は閉鎖されたままとなっていて、通常このホームへの立ち入りはできない。だが、電車線ホームからは眺めることができ、駅名標もJR東日本の標準形のものではなく、かつて隆盛をしのんでか、それともレトロブームに乗ってなのか、青地に楷書体で「両国」と書かれたものになっていた。そして東京方のホーム上屋は恐らく蒸機運転時代からのものであろう、庇のついた立派なものが造られていて、古レールを活用した建材と曲線美のあるトラス構造の梁が何ともいえぬ優雅さを醸し出している。そして、支柱に取り付けられた縦書きの駅名標も、国鉄時代ならどこの駅でも見ることができた紺色地に白文字で書かれたものだが、材質はホームに行くことができないために確認できなかった。もしも、昔からの琺瑯製であれば、この駅の歴史を語る「生き証人」かもしれない。
 ところで電車線ホームは列車線ホームよりも少し高い位置にある。今ではステンレス車体に黄色い帯を巻いたE231系電車や209系電車が頻繁に発着するが、少し前まではカナリア色に塗られた鋼製の201系電車や103系電車が、その昔は101系電車、茶色い72系電車と緩行線電車の顔は時代とともに変わり続けているが、ホームはそれほど変わった様子がない。もともとが電車が発着することを前提に造られたので、古い駅のホームにありがちな嵩上げの痕は見あたらなかった。おそらく、ホームの高さは最初から電車サイズだったのだろう。ホーム上屋も古くからのもので、やはり古レールを建材として再利用している。支柱はレールを背中合わせにして強度をもたせるオーソドックスな形状にしてあるが、筆者が注目したのは上屋を支える梁の部分だった。駅の上屋は様々な形態があるが、島式ホームの場合は一般的に「へ」の字形か「逆へ」の字形が多い。両国駅のホームは比較的幅が広くとられているためか、「へ」の字形を二つ組み合わせたもので、レールを背中合わせにした梁が上部と下部に分かれる構造になっていた。庇にあたる部分もまた、曲線状に折り曲げて造られているのだが、さらに強度をもたせるためか細いL字鋼をトラス状に組み合わせた縦梁も備えられていた。これは後付けではなさそうで、古レールの構造物とマッチするように配慮された造りだ。このあたりは、駅の構造物とはいえ先人の「美」に対する拘りには感心する。

▲上:両国駅北口の改札は、古い建物の割に明るい。改札からホームに通じる通路は、天井を半透明の素材が使われていて自然光が入るように工夫されている。しかし、構造物そのものは古くからのもので、採光による明るさと相まってよくわかる。壁には大相撲の優勝力士の肖像画が掛けられ、相撲の聖地という印象を強くする。 下:電車線ホームの完成とともに開設された南口。典型的な高架下にある改札で、北口と比べて狭い。古くからある高架駅は改札口も必要最小限の大きさしかないが、そこに駅の歴史を伝えるものを感じる。
 ホームを降りて西口へと向かうと、先ほど紹介した列車ホームへの通路はシャッターで締め切られていた。ホームと改札を結ぶ通路も古さを感じさせるものだが、ある程度改装されているのか比較的明るくなっている。そして、改札口へと抜けることのできる階段の脇には、今ではどこの駅にでもあるエスカレーターも備えられていた。その階段を下りて改札口との間にある踊り場も、午後の日差しが差し込んで明るかった。天井は一部が透明になっていて、ここから採光して踊り場を照らすようにしている。この天窓らしきものはいつからのものなのかはっきりしないが、震災以降、節電が叫ばれるご時世にあってこの採光窓は、まさに節電が可能な設備だ。
 駅舎そのものは古さを感じさせる造りで、天井を支えるトラス状に組み上げられた梁が剥き出しになっている。そんな構造物から吊り下げられている案内表示は新しいタイプのものに替えられていて、ピクトグラムを併用した表示とは少々ミスマッチにさえ感じる。その脇に、一際大きく目立つ額縁が幾つか飾ってあった。さすが相撲の聖地・両国国技館の最寄り駅だけあって、何人かの優勝力士の肖像が掛けられていた。もちろん、最近の場所かとおもっていたが、実際はそうではなく、1972年(昭和47)年3月場所で優勝した長谷川関を始め何人かの肖像が飾られていた。
 改札口は他の首都圏の駅と同様に自動改札になっていて、みどりの窓口も設置されている。駅前にはタクシー乗り場があり、整然と色とりどりのタクシーが客待ちをしている。比較的広い駅前広場であるが、タクシー乗り場が囲むようにして有料駐車場が設置されていた。ふつう、こういう駅前にはバスロータリーなどがあるのだが、両国駅はそうではなかった。そして、駅舎は時代を感じさせるデザインで、「両国駅」の看板の上には3つの大きな窓が並んでいる。この窓は、上部が半円形になっていることから、昭和期の建築だろう。とにかく、かつてのターミナル駅の風格を僅かに残している。
 国技館を背中にして、総武緩行線の高架橋を潜り抜けると、左手に伸びる道があるのでそこを千葉方に向かって行くと、駅前という好条件の立地で商店が並んでいた。といっても、ファーストフード店と居酒屋チェーン店が主で、駅前商店街といった趣ではない。その通りの半ばほどに両国駅の看板が目に入ってくるが、こちらは電車線の開業と共に造られた改札口だ。国技館に隣接し、列車線ホームに近い西口改札とは違い、こちらは狭く小さなものだ。高架下にある典型的な構造だが、やはりこちらも年季が入っているようだ。先ほどの西口と比べて人通りが多いためか、こちらの改札口を利用する人の姿が多かった。
 両国駅の歴史を紐解くと、都心側のターミナルとして開業したにもかかわらず、時が流れるにつれその使命を他の駅に譲り凋落していき、現在では本来の有り様をごく僅かに残すだけになってしまった。しかし、今も残る列車線ホームからは、優等列車を始め普通列車も発着し、シーズンともなれば房総各地へ保養に向かう乗客たちで賑わったであろう。現在は、通勤通学での利用者はもちろん、隣接する両国国技館で大相撲が開催されれば、大勢の観戦客で賑わいをみせている。東京の下町にある両国駅は、時代と共にターミナル駅としての役割から変化しながらも、その風格をどこか残している。
▲歴史のある駅は、その設備もまた重厚感がある。現在の新しい建造物にはない、なにか「魅力」のようなものがある。両国駅のホームもまた、そうした歴史を語る生き証人のようなもの。かつては優等列車が発着するターミナルとして開業し、多くの利用者で賑わったという。第二次世界大戦で駅周辺は米軍による爆撃に遭い、悲惨な歴史を目の当たりにし、戦後は高度経済成長とともに利用客の増加や、それに伴う「通勤五方面作戦」といった変化を見守り続けてきた。国鉄の民営化により優等列車の発着がなくなるなど、駅の役割が歴史を紡ぐ中で変わり、発着する列車もカナリアイエローの電車から最新のステンレス車になっても、駅そのものの姿は変わらない。こうした混雑の光景もまた同じだ。
駅概要
駅名 両国(両国)駅 駅構造 高架駅
所在地 東京都墨田区 ホーム構造 2面3線
所属事業者 東日本旅客鉄道 駅種別 旅客駅
所属路線 総武本線 開業 1904年
キロ程 錦糸町起点 1.5km その他 東京都交通局大江戸線
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