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取材日:2014年8月1日
掲載日:2014年8月24日
▲四日市駅舎を正面から捉えた時、列車の運転本数や乗降客数など、駅の規模としてはあまりにもアンバランスな印象をもった。かつては1階には商店が、2階にはレストランが入居して営業していたらしいが、現在ではどちらも閉店してしまっている。当駅は貨物輸送も取り扱っている一般駅のため、職員が相当数所属していたが故にこのような大きな駅舎が必要になったのだろうか。駅前広場の人通りのなさと相俟って、何とも寂しい雰囲気がしてならなかった。
 この夏、三月まで一緒に働いた後輩から結婚式に招待されていたので、名古屋へと行くことになった。せっかく遠出をするのだからと、日帰りではなく前日に名古屋入りして、自由気ままに周辺を散策することにしたのだが、初めは観光名所を訪ね歩こうとしたものの、名古屋まで出て行って収穫なく帰るのもと思い、関西本線に乗って四日市駅を訪ねることにした。
 四日市駅はその名の通り、三重県四日市市にある。しかし、四日市市の中心駅はJRの駅ではなく近鉄名古屋線にある近鉄四日市駅で、街もまた近鉄四日市駅を中心に栄え、中心街・繁華街もこちらの方に広がっている。そもそも、近鉄は平日1日に約500本の列車が発着する三重県最大のターミナル駅を構成しているのに対して、JRの四日市駅は特急などの優等列車の停車はあるものの、平日1日に136本の列車が発着しているのに過ぎない。伊勢鉄道もここを列車運行上の起点としてJRからの特急乗り入れもあるが、1時間あたり1本の普通列車を運転しているに過ぎず、利便性からいえば近鉄に軍配が上がってしまうのは当然だろう。

▲上:四日市駅のホーム上屋は比較的シンプルな構造。屋根のスレートも所々半透明のものが使われているので、照明を点灯していなくても明るく感じる。奥にはDD51形ディーゼル機関車がエンジンをアイドリング状態にさせて待機していた。さらに奥にはコンテナが留置されている留置されている。下:四日市駅の海側は貨物側線が広がっている。留置されているDD51形ディーゼル機関車も、かつては全国の非電化路線ならばどこでも見かけることができたが、現在では本線で走行する姿を見ることができるのは北海道と関西本線のみとなってしまった。
 立地にしても同じで、近鉄四日市駅が内陸部にあるのに対して、JRの四日市駅は臨海部にある。駅の近隣には太平洋セメントやコスモ石油といった工場があり、セメント、あるいは石油製品といった車扱貨物の大口顧客である。他にも四日市周辺にある工場からコンテナによる貨物輸送が行われており、現在では少なくなった旅客と貨物の両方を取り扱う一般駅である。そのために、駅の構内は旅客設備に比べて貨物設備に重点が置かれ、旅客設備が島式1面2線というシンプルなものであるのに対し、貨物設備はコンテナホーム4面、コンテナ荷役線は7線もあり、これに発着線や検修線、留置線を含めるとかなり多くの線路が敷設されていることがわかる。
 四日市駅に発着する貨物列車は、すべてDD51形ディーゼル機関車が牽引している。関西本線は名古屋駅−亀山駅間は電化されていて、非電化である伊勢鉄道へ直通運転する特急「南紀」と快速「みえ」は気動車で運転されるのを除いて、名古屋駅発着の列車はすべて211系電車や313系電車で運転されている。貨物列車も電化されている四日市駅までの運転であるが、実際には貨物支線である四日市駅−塩浜駅間は非電化のまま残されていることと、日本で唯一残った跳開可動鉄道橋として有名な末広橋梁を擁する四日市港までの構内側線もまた非電化であるために、このごく短い区間のためにわざわざ別にディーゼル機関車を用意しなくて済むようにDD51形ディーゼル機関車が運用されている。
 四日市駅の開業は、1890年まで遡ることができる。関西本線の前身である関西鉄道の手によって、柘植駅から延伸した際の終着駅として開業した。その後、鉄道国有法の施行により1907年に国有化され、1908年に路線名称の制定により関西本線の所属駅となった。1920年には関西本線貨物支線として、当駅から塩浜駅までの3.3kmが開業している。電化されたのは1982年のことで、既に先行して電化されていた名古屋駅−八田駅に続いて、亀山駅までの電化延伸の際のことである。1987年の国鉄分割民営化により、関西本線は名古屋駅−亀山駅間がJR東海に、亀山駅−湊町駅(→1994年にJR難波駅へ改称)間がJR西日本にそれぞれ継承されることになり、四日市駅は旅客営業についてはJR東海が、貨物営業についてはJR貨物がそれぞれ継承した。その後は大きな変化もなく現在に至っている。
▲長い歴史をもつ駅ならではの特徴として、ホームの嵩上げがある。客車時代はホームもそれほど高さは必要がなかったようであるが、高圧高電流が流れる床下機器を満載した電車となるとそのままとはいかず、電化に際して嵩上げがされている。とはいえ、ホームすべてを嵩上げするとなるとコストもかかるので、写真のように必要な部分だけに施しそのままとの部分とはスロープ状ににして接続している。ただ、点字ブロックはすべてに埋め込まれている点は、現代の駅の姿といえるかもしれない。木造のホーム上屋、制輪子がまき散らされて茶色く変色した幾重もの軌道、国鉄色のディーゼル機関車という組み合わせは、昭和時代の国鉄の光景そのままといってもいいかもしれない。
   駅の構内を歩いてみると、ホームや上屋、跨線橋といった構造物がとにかく古いことが印象に残った。歴史の古い駅はどこもそうなのだが、客車対応の低いプラットホームを電車対応の合わせて嵩上げしてあり、ホームの先端部は嵩上げの必要がないことから昔の高さのまま残されていた。駅名標や時刻表、駅の案内板などは現在のものに替えられていたが、ホームの旅客を風雨や日差しから護る上屋とそれを支える支柱や梁といったものは、筆者の好きな古レールを使ったものだ。駅舎訪問の原稿を書く時に毎回思うことなのだが、高速で走行しかつ重量のある鉄道車両を支えるために、一般の鋼材よりもはるかに強固なレールを、何本も同じように切断し折り曲げ、それを組み合わせるとは恐れ入る。筆者は鉄道員時代はいわゆる技術職場と呼ばれる部門に属し、レールの重さや堅牢さは嫌というほど知っている。が、それをこのように加工するとは芸術的といっても過言ではないと思う。
▲左:ホーム上屋を支えている古レール。太さから恐らく30kgレールと推測できるが、刻印が見つからなかったので明確ではない。「G.H.H. 1911」の刻印からドイツ製のレールと判る。 右:跨線橋を支える建築資材のほとんどが古レールを加工したもので、支柱や梁はもちろんだが筋交いにまで使われているのには驚いた。一見すると無骨で実用できればそれでよいともいえるが、これはこれで芸術的と見ることもできる。

 支柱となっているレールをつぶさに見て回ると、一部に刻印が見て取れた。そのうちの1本は「G.H.H. 1911」と読み取れる。ドイツのグーテ・ホフヌングス製鉄所(GuteHoffnungsHutte)で1911年に製造されたもので、もう1本は同じ製鉄所で1914年製と判った。レールの太さから30kgあるいは37kgレールであろうと思われるが、いずれにしても第一次世界大戦前に製造されたもので、第一次大戦時に日本はドイツと交戦状態にあったことを考えると、1914年製の、それもドイツ製のレールは貴重なものだと考えられる。
 ホームと駅舎を結ぶ跨線橋もまた古レールと木材を使った建築物であった。四日市駅の跨線橋は、貨物列車の発着線も跨ぐので比較的長い。その長い跨線橋をすべて古レールと木材と、橋桁には鋼板を組み合わせ、接合部はリベット打ちで作られているのには正直感心させられた。1960年に跨線橋が完成したようであるが、既に半世紀以上も使われ続けていることには驚くばかりだ。この跨線橋に使われている古レールもまた年代物のようで、「OH TENNESSEE 7540-ASCE-12-1921」と読み取れた。米国USスチール・テネシー製鉄所で1921年に製造されたもので、それから93年もの間使われ続けている。梁に使われているこのレールは、天井部は緩やかに曲げられ、雨樋部分はほぼ直角になるように折り曲げられていたが、これが何本も続いているのを見ると圧巻だった。


▲跨線橋三態。古レールと木版、そして桁部に鋼板を組み合わせて造られた跨線橋は、1960年に完成したものだった。以来半世紀以上に渡って、激動の国鉄末期、そして変化の激しい民営化後の四日市駅を見守りながら、多くの利用者が改札とホームを往来する役割を担ってきた。こうした光景も、国鉄時代のまま取り残された間が拭えないが、それもいつまで続くことだろう。
 この跨線橋を渡って一度改札の外へ出てみると、駅前には比較的広めの駅前広場があり、そこには路線バスの発着所とタクシーの待機場所が整備されてはいた。四日市駅の駅舎もホームの規模の割には大きく、鉄筋コンクリート二階建てで長い。これだけの規模の駅舎なら、商業利用の価値もあると思われるのだがそのように活用されている様子もなかった。これだけ立派な駅舎なのに、そのほとんどが使われず閉鎖されているとは何とももったいない話だ。
 駅前広場も閑散としていて、何とも寂しい感じがしてならなかった。路線バスが発車時刻までの時間を過ごしていたが、乗車しているような様子もなく、さらに客待ちのタクシーも2、3台駐まっていたが、こちらも利用者がなく手持ちぶさたのようだった。この閑散さに追い打ちをかけるのが、駅前広場から真っ直ぐ伸びる大通りだ。中央通りと呼ばれる幅の広い道路は、近鉄四日市駅との間を結んでいるのだが、これを造ったのがバブル絶頂期の頃だという。この時期に再開発を目論んだようだが、敢えなくバブルが崩壊してしまい、その後は計画も宙に浮いたままとなり、この大通りだけがバブルの遺産として遺っているようで、どこか時代に取り残された感が拭えなかった。

 名古屋と大阪を結ぶ短絡路として建設され、当初は官営鉄道と客を奪い合ったものの、鉄道国有化や東海道新幹線の開業、さらにはモータリゼーションの伸展により名阪間の輸送の役割を負え、地域輸送に徹するようになった関西本線。その名古屋側にあり三重県下で最大の人口を擁する四日市市にある四日市駅。列車の運転本数、利用者数ともに近鉄四日市駅にはかなわないものの、近年は1日の乗車人員が増加傾向にある。特に夕方のラッシュ時間帯に快速列車を増発するなど、JR東海が利便性を少しでも高くしようとしてきたことも一つの要因であろう。
 一方で、当駅の貨物発送トン数は年々減少傾向にある。2012年度は628,643tであったのに対し、2013年度は541,972tと約80,000tもの減少だ。これには長引く景気の低迷など様々な要因が考えられるが、太平洋セメントの骨材輸送が2012年に終了したところが大きい。JR貨物が汎用性に乏しい車扱貨物輸送を廃止して、コンテナへの転換を推進していることも、ある意味において顧客を手放してしまっているのかもしれない。
 いずれにしても、臨海部にある旅客と貨物の両方を取り扱う四日市駅は、どこか昭和の国鉄時代を感じさせる雰囲気を残す駅だった。ディーゼル機関車がエンジン音を轟かせ排気臭を残しながら行ったり来たりする光景は、かつて国鉄の駅ならばどこでも見かけることができたであろう。取材中、伊勢鉄道の列車が到着し、数人の高校生が楽しくお喋りに夢中になりながらホームを歩いて行く姿が見られた。駅の立地などから極端な発展を期待するのは難しいだろうが、地域の人にとって大切な交通機関の窓口であり続けてほしいと思う。
▲国鉄の分割民営化から既に25年が経ったにもかかわらず、四日市駅にはどこかその時代の空気が残っている気がした。黒一色に塗られた貨車、それを牽くディーゼル機関車もそうだが、貨車の入れ換えの度にディーゼルエンジンの咆哮と排気臭、低速で走る車両の走行音がしたかと思うと、再び静寂が訪れるあたりは筆者が少年時代に見つめてきた操車場や臨海部の駅そのものだった。とはいえ、時は確実に進んでいて既にそれは思い出だったことに気づかされる。そこへ伊勢鉄道の気動車が到着して、学校帰りの高校生の姿を見ると、時代は変わっても人の営みそのものは大きく変化してない。
駅概要
駅名 四日市駅 駅構造 地上駅
所在地 三重県四日市市 ホーム構造 1面2線(旅客)コンテナ2面4線(貨物)
所属事業者 東海旅客鉄道/日本貨物鉄道 駅種別 一般駅
所属路線 関西本線 開業 1890年12月25日
キロ程 名古屋起点 37.2km その他 伊勢鉄道
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